我が家の書斎の壁に、伎楽(ぎがく)面が掛かっている。赤ら顔で、目を見開き、「怒髪天を衝く」さながらに髪がさかだち、怒りの表情をしている。この面の作者は、篠山市の山根巳代治さん。山根さんは広島と長崎で2度、原爆投下に遭遇するというまれな体験をした。▼陸軍軍曹だった山根さんは8月6日朝、広島駅に降り立ち、原爆に遭った。広島での任務の遂行が無理となり、下された命令は「長崎へ行け」。9日、長崎駅の貨物集積場で爆薬や火炎放射器などの仕分けをしていたとき、原爆が落ちてきた。▼命令を受け、市内を偵察。うずたかく積もった木切れの中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。木切れを取り除くと、30代前半と見られる母親がうつぶせになり、しっかりと赤ん坊を抱いていた。母親は「私たちがなぜ…」とつぶやき、息を引き取った。▼赤ん坊の命を守るために、極限まで力を振り絞ったであろう母親。その愛の強さを思う。同時に、母親の最期の言葉は、いたいけな新しい命まで容赦なく奪い取る戦争の理不尽さに対する告発ではなかったかと思う。▼「私たちがなぜ」。この問いかけに対する返答は、2度と愚かな行為を繰り返さないことだ。山根さんからいただいた伎楽面は、ともすれば愚かになりやすい人間に対して怒っているように思える。(Y)