栗ご飯のおいしい季節になった。ほおばると、口の中に秋の香りが広がる思いがする。地元の風土の中で育った栗が味わえるのも、丹波人ならではの至福だろう。 江戸時代、丹波栗の名声は天下にとどろいた。全国の諸大名が自国の名物を将軍に献上したが、日本60余か国、270名に及ぶ大名の中で栗を名物にしたのは数えるほどしかなかった。そのなかで丹波は、5名の大名が栗を将軍に献上した。元禄10年に出た「本朝食鑑」では、「丹波山中にあるものを上とす。その大なること鶏卵大の如し」と丹波栗を絶賛している。 長い歴史の中で、一般大衆がコメに不自由しなくなったのはまだ浅く、栗は貴重な食糧だった。「京都府園芸要鑑」では、コメがあまりとれず、栗が多くとれる地域では「栗六、米四」の栗ご飯を常食とすると紹介している。これが明治末期ごろの姿だった。 以上は、細見末雄さんの著書「丹波史を探る」から採ったものだが、栗と丹波とのかかわりは実に深い。栗と並ぶ丹波の名物、マツタケはめったに口に入らず、名物とは名ばかりのありさまだ。せいぜい栗を食べて、丹波の秋を満喫したい。(荻野祐一)