不幸な報道の意味

2008.04.30
未―コラム記者ノート

 先日、夜寝ていると、強烈な吐き気で目が覚めた。トイレに駆け込んで何度ももどし、一睡もできないまま仕事場へ。時折襲ってくる吐き気と、栄養がなくなった体で、ふらふらしながら取材していた。 見かねた上司に勧められ病院へ。入社以来、初めて取材以外でお世話になった。診察結果は「食あたり」。前夜は、先輩も同じものを食べたが平気なご様子。先輩が「鋼の胃袋」の持ち主なのか、私の手にバイ菌がいたのか。ともかく原因は不明だった。 やっと体調がもとに戻ったころ、「毒ギョーザ事件」を思い出した。すでに、下火になりつつあるが、安全と思って口にしたもので、私の何倍もの苦痛を受けた被害者の方に心から同情した。 このように、自分が似たような境遇になって初めて気持ちがわかる事件が多い。事故、火事、自殺―。日刊紙の社会面を開くと、全国の不幸な記事がびっしりだ。読み飛ばしているものもある。しかし確実に、苦しんでいる人がいる。「自分だったら」と想像し、気を付けてもらうことが、私たちがたとえ、不幸な事件でも、報道している意味だと感じた。 (森田靖久)

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