11年前に取材した青垣町の男性の記事を読み返した。当時、男性は84歳。戦争の傷が原因で両目の視力を失っていた。
昭和18年、20歳で入隊。戦艦「日向」に乗り込み、レイテ沖海戦に参加。激戦の中、沈没していく日本の航空母艦を目撃した。45度ぐらいに傾くと、乗船している日本兵はまるで米粒のように海に落ちていった。船の柱に自分の体をロープで結びつけ、海底に沈んだ艦長もいた。
生き残った男性は昭和20年夏、広島の呉で、日向に乗船中に敵の攻撃を受けた。爆弾が爆発。破片が体中に突き刺さり、気を失った。2日後、病院で意識を取り戻した男性に「左眼損傷、回復不能」の診断が突きつけられた。およそ2週間後、病院の窓から原子爆弾投下によるキノコ雲を見た。戦争は終わったが、体に破片が残り、破片がもとで右目も次第に見えなくなった。
男性の卒業した小学校の男子同級生25人のうち7人が戦死。「戦死した友達は何をしに生まれてきたのか。かわいそうに思います」。そう話した男性も先ごろ逝去された。
戦後72年。戦争の生き証人がまた一人亡くなったように、先の大戦が遠ざかる今、無季派の俳人渡辺白泉の代表作が不気味な響きを放ち始めた。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」。72年の年数がさらに積み重なることを祈る。(Y)