生け花

2017.11.18
丹波春秋

 11月18、19日、春日文化ホールで「県いけばな展」が催されている。生け花の良し悪しを解せない武骨者の当方だが、最近、向田邦子のエッセイを読み、感じ入った。

 花を生けるのは残酷なことと向田はいう。「花を切り、捕われびとにして、命を縮め、葬ることなのだから」。葬るという視点から向田は、花器を「花たちの美しいお棺である」と見る。続けて書く。「花をいけることは、花たちの美しい葬式でもある」。生け花は花にとっての葬式だとし、そこに美を見いだす感性にうなってしまった。

 千利休の逸話を思う。ある年、利休は自分の屋敷の庭に朝顔の花をたくさん咲かせた。その噂を聞いた豊臣秀吉から「見たい」と所望され、秀吉を迎えることになった。当日、秀吉が出向くと、庭の朝顔はすべてむしり取られていた。ところが、茶室に入ると、一輪の朝顔の花が床の間に生けられていた。

 朝顔をむしり取ったのは、一輪の朝顔を生かすためだった。随筆家の白洲正子は、一輪の朝顔が生きたことによって、むしり取られた朝顔は「成仏することを得た」と書いた。向田の「葬式」、白洲の「成仏」。いずれも死の影がひそむ言葉だ。

 死が背後にあるからこそ、生けられた花の輝きが際立つのではないか。それが生け花の美しさではと、武骨者ながらに思った。(Y)

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