西郷隆盛を祀る「南洲神社」が、鹿児島から遠く離れた山形県酒田市に、本州で唯一存在する。西郷の教えを伝える「南洲翁遺訓」も旧庄内藩で編まれた。
なぜか。話は幕末の戊辰戦争に始まる。会津藩などが悲惨な戦火にまみれたのに対し、庄内藩では官軍は城の明け渡しと兵器弾薬の没収のみを命じ、2日で引き揚げた。参謀黒田清隆が言渡しの後、藩主酒井忠篤の下座に回って礼を尽くすのに庄内軍の面々は驚く。
中老菅実秀が明治2年、東京に黒田を訪れた際、その処置は西郷が「敵となり味方となるも一に運命によるもの」と、黒田らの反対を押し切って寛大な処置を指示したためと知らされた。かつて江戸市中取締役だった庄内藩が江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたにもかかわらず。
西郷に感服した忠篤公は翌年、旧藩士70余名らと鹿児島へ。以来、両者の交流が始まった。西郷を兄の如く敬愛する菅は、県の要職に就き、地元の産業振興に務めていたが、西郷亡き後「遺訓」の編纂を指示、忠篤公が出版して全国に配布した。
その一節には「敬天愛人―天を相手に最善を尽くし、たとえ世に認められなくとも人を咎めるな」とあり、同地では今も同書を教材に毎月、「人間学講座」が開かれる。―鶴岡市の知人Aさんから送られた地域情報誌「Cradle」1月号より。(E)