兵庫県丹波市の国指定史跡「黒井城跡」登山道にある、戦国武将の同城主・赤井(荻野)悪右衛門直正の招魂碑。文政2年(1819)に建立された碑には、「丹波の赤鬼」の異名を持つ直正の生涯が漢文で刻まれている中、1570年代に直正と熾烈な戦いを演じた明智光秀の名が何者かによって削られている。その理由は民衆の「恨み」と取れなくもないが、そもそも招魂碑は誰が建てたのか。誰が発起人となり、誰が碑文を考え、誰が彫ったのか。現代語訳した文献が見つからないため、丹波新聞社は丹波市文化財保護審議委員の山内順子さんに解読を依頼した。碑を読み解いていくと、地元の民衆らが240年前の城主に抱いていた尊敬の念が浮かんでくる。
光秀は天正年間、織田信長の命で丹波国平定戦「丹波攻め」を行った。天正3年、丹波国で強大な力を誇っていた直正と一戦を交え、この時は直正が光秀軍を挟み撃ちにする戦法「赤井の呼び込み戦法」で光秀軍を総崩れにさせた。2度目の丹波攻めは同6年に行われ、直正を病で失っていた赤井軍は光秀軍に敗れ、黒井城は落城した。
碑の建立は幕末の動乱に突入する前の、日本が比較的穏やかだったとされる時代。1570年代の「丹波攻め」から240年ほど経ってから建てられている。光秀の名は5カ所に刻まれ、うち3カ所で削られている。
城主の事績を「遠い地へ」
京都府亀岡市に拠点を置き、碑の建立当時、黒井城下の村を治めていた亀山藩領の各地で記念碑などがいくつか建てられていたことが史料からわかった。赤井直正招魂碑には、地元の人物と思われる人々が多くかかわっていたとみられる。
碑によると、建立には「山本正邦」という人物と、「邑(村)人・原道一」らがかかわったとある。山本は「勉学を好み、古い事柄に感じ入ることがあり」と紹介され、碑建立の理由について「直正の事績を世に伝え、大いに徑庭(けいてい)に広めるために原らと謀(図)った」と彫られている。徑庭とは「遠い」「へだたり」などの意味。遠い地にも直正の事績を伝えることが理由だったらしい。
碑の後半では、「西亀山藩主藩臣 安達有年 謹撰」「同藩 河南政又 書」とある。建立にかかわったとみられる他の人物の名も刻まれ、「細見」「片山」「岸」「植田」「秋山」「荻野」など、今なお地元に多くある名字を持つ人物名が並んでいる。
「亀岡市史」「藩史大事典」によると、当時の同藩の「飛び地」の支配機構は、「奉行―代官―手代―用人」の順になっており、奉行や代官は藩から派遣されるが、その他は地元で召し抱えられたとある。これを踏まえると、碑に刻まれている人物は、地元の人物だった可能性が高い。
時代はさかのぼるが、明和2年(1765)に亀山藩が作成した「先祖書」には、「安達」「河南」の名が見られ、確かに同藩内にその名字を持つ人物がいたことがわかる。
顕彰の機運が土壌に
「亀岡市史」には、18世紀ごろから同藩領や丹波国にかかわる地誌が作られるようになり、各地で記念碑などが建立されるようになったと記されている。例えば、1799年に建立された、源頼政の遺骸を埋葬したとされる「頼政塚」(同市西つつじヶ丘)にある碑「従三位源公之墓」は、碑文などを同藩士に依頼したという。亀岡市史には「この時期、在町在村の有志が地域で顕彰すべきところを再度取り上げ、亀山藩士・儒者などに碑文を依頼して記念碑などを建立した」とあり、「みずからの属する地域をかつての地方行政機構であった国郡制により、国や郡の単位として捉え、その歴史に関心を持っていたことを表している」と書かれている。
碑文刻んだ地元の石工「由兵衛」
碑の台座の背面には、「氷上郡野村石工由兵衛」とあり、この人物が漢文を刻んだとみられる。
漢文の最後には「願主 興禅八世 仙杖」と刻まれており、黒井城跡のふもとにある興禅寺の住職の名が彫られている。同寺によると、現住職の森野大乗住職(36)は18世。10世前の「仙杖」に関して同寺に詳しい記録は残っていないが、八世を含む歴代住職の墓が同寺近くにある。
なお、同寺は「丹波攻め」後、光秀の家臣・斎藤利三が戦後統治の拠点とした陣屋だったところで、ここで利三の娘として生まれたのが「お福」といい、のちに春日局を名乗る。