「赤鬼」実弟の足跡たどる 光秀撃退に貢献の赤井幸家 諸国放浪も「世渡り上手」

2019.03.08
ニュース丹波市明智光秀と丹波地域

赤井幸家の墓の前で久下さん(右から5人目)の説明を聞く参加者=兵庫県篠山市上板井で

「丹波の赤鬼」の異名で知られる、丹波国の戦国武将・赤井(荻野)悪右衛門直正。黒井城(現兵庫県丹波市春日町)を拠点とした直正は天正年間、織田信長の命による「丹波攻め」の際には、明智光秀を撃退するなど勇名をとどろかせた。この戦いでは直正の実弟・幸家(よしいえ)も奮戦するなど活躍。現在も幸家が築いた「三尾城」の跡が残っている。そんな幸家の足跡をたどろうと、地域住民が2月23日、同城跡がある三尾山に登るなど歴史探索を楽しんだ。

城主の子を後見、光秀と激闘

一度は光秀軍を破った赤井氏だったが、天正7年(1579)に再来した光秀の攻撃により三尾城が落ち、黒井城も落城。幸家は諸国を放浪した。

歴史探索は、三尾城跡がある同町大路地区自治協議会の地域振興委員会が企画。三尾山登山と、幸家とゆかりがある弘誓寺(篠山市上板井)を訪問した。同県丹波市文化財保護審議会委員の久下隆史さんが解説した。

同寺には、幸家が寄進した八相涅槃図、大日如来座像がある。参加者は、幸家の法名が書かれた位牌や墓石も目にした。久下さんは、「三尾山の近辺には、佐仲、鏡、瓶割の三つの峠があり、三尾城が氷上郡(丹波市)と多紀郡(篠山市)をにらむ戦略的に重要な城だった」と解説。「当時の幸家が如意輪観音を信仰し、弘誓寺の山号が三尾山であったことも信仰を深めた背景になっていたかもしれない」と推測する。

また、「江戸時代に子孫が江戸(東京)で、弘誓寺住職に出会い、宮田(篠山市)の人に託した手紙が残っていた」とし、その写しを紹介。「手紙にはお墓の守りを頼むなどの文言が見られる。あて先はおそらく有力な檀家だったのではないか」と語った。

さらに「黒井城や三尾城落城後の赤井氏は世渡りがうまかった。黒井城落城時に城主の直正の子、直義は幼く、幸家が後見となって信長の命を受けた明智光秀軍と戦った。落城後は、直義を逃がし、伊賀上野(伊賀市)で徳川幕府の重臣、藤堂高虎に仕官させ、今も赤井氏が続いている。幸家の子孫も幕府の旗本になっている」と話した。

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