赤穂浪士に「刃」の赤字 旧家に藩の「職員名簿」保管 討ち入り「軍資金」と言い伝え

2019.12.13
ニュース丹波市地域歴史

赤井さんが保管する赤穂藩の「分限帳」。筆頭には大石内蔵助の名があり、赤字で「刃」と記されている=2019年12月6日午後3時12分、兵庫県丹波市氷上町稲畑で

元禄15年(1702)12月14日(旧暦)、主君の浅野内匠頭の仇を討つため、赤穂藩士(浪士)47人が吉良上野介の屋敷に討ち入った「赤穂事件」。兵庫県丹波市氷上町の赤井君江さん(85)宅に、同藩士の禄高(給与)などを示した「家中分限帳」が保管されている。討ち入りに関わった人物の名の近くには赤い字で「刃」と添えられており、赤穂事件後に切腹したことが示されているほか、討ち入りを指揮した家老・大石内蔵助を筆頭に、浪士の戒名や享年を書いたページなども付け加えられている。赤井家には、同藩士が地方の有力者に「分限帳」を売り、討ち入りの軍資金に換えたと伝わっているが、赤穂市立歴史博物館(同県赤穂市)によると史実かは定かではないという。赤井さんは「先祖が大切に保管してきた誇りあるもの。自分も大事にしたい」と話している。

行方不明の寺坂「京都へ飛脚」「今も存命」

討ち入りに入った浪士の名や戒名、享年などが示されたページ

分限帳は家臣たちの「職員名簿」のようなもの。赤井家に伝わる分限帳には、大石内蔵助の千五百石を筆頭に、同事件関係者では片岡源五右衛門が三百五十石、原惣右衛門が三百石と続き、高名な堀部安兵衛は二百石とある。同事件にかかわった人物には、いずれも名前の上に赤丸が、下には「刃」の赤文字が書かれている。

同事件後、幕府は浪士の処分を決めるまで、浪士を4大名家に分けて預けたが、分限帳の後半には、それぞれの預け先も記載。細川家(熊本藩)に17人、松平家(松山藩)に10人、毛利家(長府藩)に10人、水野家(岡崎藩)に9人が預けられたことが分かる。いずれの人物名にも戒名と享年が書き添えられている。同事件では唯一、寺坂吉右衛門の行方が分からなくなったが、これについては「夜討ちの場所より京都へ飛脚としてのぼった。今も存命している」と記されている。赤井さんは、赤文字の部分を含め、これら一連のページは後世、先祖が付け加えたとみている。

丹波地域は、能楽のルーツの一つ「丹波猿楽」発祥の地とされ、赤井さんの先祖は丹波猿楽にかかわりが深い人物「梅若太夫」の流れをくむ。赤井さんは「年代からすると当家30代の梅若太夫源忠景の時代に赤穂浪士が当家に立ち寄り、分限帳を売ったのではないか」と推測する。

氷上郷土史研究会の足立義昭会長(76)は、「現在の丹波市氷上町の辺りは、丹波路や但馬路、播磨路などが交わる交通の要衝だった。赤穂から浪士が丹波の地へ訪れていたとしても不思議ではない」と話す。

赤穂市立歴史博物館は「分限帳が当時のものかどうかは見てみないとわからない」としつつ、「赤穂藩は討ち入りで有名になったため、他の藩に比べて分限帳の写本が出回っている。ただ、その数は少ないため、仮に写本であってもかなり貴重なものであることには違いない」と話している。

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