1月から戦国武将・明智光秀を主人公に、群雄割拠の乱世を描いたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映がはじまる。織田信長の命により、2度にわたって兵庫・京都にまたがる旧丹波国に対して、「丹波攻め」を行った光秀。光秀にすれば「平定した」、丹波地域にとっては「征服された」という表裏一体の意味を持つ。多くの寺社なども焼かれ、民衆は混乱に陥ったことは想像に難くない。「爪痕」は今も点在し、戦国の記憶を現代に伝えている。
丹波国の平定が完了すると、光秀は重臣・斎藤利三を戦後統治にあたらせた。利三はのちに徳川家光の乳母として知られることになる春日局の父親だ。
兵庫県丹波市市島町白毫寺にあり、現在は九尺フジで有名な白毫寺(荒樋勝善住職)には、利三による同寺の僧に対する軍役容赦を示す「下知状」が残されている。
下知状は、丹波攻め後の天正8年7月23日の日付で書かれており、「白毫寺へ還住之衆僧、當陣人足之儀、令用捨候畢、可成其意候也」とある。白毫寺の僧に対して、利三の陣屋での労役を免じており、占領地の人心を安定させるための宣撫(せんぶ)工作だ。
「丹波戦国史」では、この下知状を「利三が黒井城下の人々に対して行った細心の配慮が窺われる」と書いている。
同寺縁起によると、同寺は705年、法道仙人により開基。最盛期には93坊を擁するなど隆盛を極めたが、丹波攻めにより、貴重な建築物を焼失するなど、甚大な被害にあったという。荒樋住職(58)は「白毫寺は、往時はかなりの勢力を誇ったと聞いている」と話し、「僧兵らによる抵抗も大きいものだったのだろう」と語る。
また、同寺には丹波攻めにかかわる不思議な話も伝わっている。
戦の際、同寺近くの山の頂に、夜な夜な光が輝いていた。この話を聞いた光秀は、軍兵を率いて調べたところ、同寺を焼き打ちした際、猛烈な炎から飛び出した同寺本尊の薬師如来が光を放って鎮座していたという。
一同は感涙してひれ伏し、戦後には重臣の利三を戦後統治に当たらせ、同寺の復興に尽力させたという話が残っている。
一方で同寺には、2回目の丹波攻めの際に、光秀の敵方だった赤井直信の名で、同寺に宛てた文書も伝わっている。諸役や臨時課役などを免じる内容になっており、斎藤利三の下知状とともに表装して保管している。
これは同市出身の郷土史家・松井拳堂が「氷上郡志」の編さんに当たり、同寺から借りた際に表装したもので、拳堂は「寺寶(宝)として保存されたきもの也」と文書の外に記している。
荒樋住職は「焼き打ちにはあっているが、古い話。光秀に対する恨みはありません」と笑う。「大河ドラマを通じ、丹波が注目されるのは良いこと」と目を細めている。