25年前に起きた阪神・淡路大震災。激震に見舞われた神戸市の病院で、小さな命が周囲の人々の手によって救われた。成長した彼らは今、社会人となり、それぞれの職に励んでいる。もちろんあの日のことは覚えていないが、それでも被災したという経験は、生きる上で大きな意味を持っている。
教諭「伝えることが恩返しに」
「阪神・淡路大震災が起きた日は、毎年、自分にとって特別な日です」
兵庫県丹波篠山市の城東小学校に勤務する福崎智弘教諭(25)は、震災3日前の1月14日が誕生日。同県小野市の出身で、母の実家があった神戸市北区の病院で生まれた。
生後3日目の早朝、病院を激震が襲った。新生児室の天井が一部崩落。その時、近くにいた看護師が福崎さんも含めた数人の赤ちゃんに覆いかぶさった。
「母から聞いた話では、もしあの時、天井の破片が当たっていたら、けがをしていたか、最悪、命を落としていた。看護師さんが守ってくれていなかったら、今、こうして話すこともできていなかったかもしれません」
病院は被害を受けたものの、甚大な被害が出た海沿いと比べれば軽度。そのため、沿岸部の病院から母子を受け入れることになり、福崎さん親子は17日のうちに退院することになった。
家に戻ったものの、おむつや粉ミルクなどが準備できておらず、スーパーはすべて売り切れ。滋賀県からわざわざ親戚が買ってきてくれた。会う人会う人がかける言葉は、「おめでとう」ではなく、「生きててよかった」だったという。
25年が過ぎ、記憶の風化が著しい。そんな中、教壇に立ち、子どもたちに震災のことを伝える立場になった。昨年のメモリアル集会では震災を”経験した”立場として母に聞いた話を子どもたちに聞かせた。覚えていなくてもわが身に降りかかった話は生々しく、子どもたちも真剣に聞いてくれたという。
震災の「恐ろしさ」の部分は記憶のなさからピンと来ていない。それでも伝えたいことはある。
「自分の命は人に守ってもらった命。守った価値があったと思ってもらえる人間になりたい。だからこそ、子どもたちにも助け合うことの大切さや周りの人に生かされているということを知ってもらえたらと思っています」