地元に伝わる史料などをひも解き、兵庫県丹波市の黒井城主だった赤井(荻野)悪右衛門直正の実像に迫る対談がこのほど、同市で開かれた。直正は戦国時代、明智光秀を破ったことで知られ、「丹波の赤鬼」の異名がある。同市文化財保護審議会委員の村上正樹さんと山内順子さんが、直正が生きた当時に書かれた一次史料や、市内に伝わる伝記などをもとに、その生涯について思いを馳せた。
天正年間、織田信長の命を受けた光秀が、「丹波攻め」を繰り広げた。同3年、丹波国に覇を唱えていた「丹波の赤鬼」の異名を持つ黒井城の直正との戦いでは、直正が光秀軍を挟み撃ちにする戦法「赤井の呼び込み戦法」を展開し、光秀は敗走。この作戦は、同県丹波篠山市の八上城主・波多野秀治が赤井方に寝返ったことに起因するともいわれ、直正と秀治との間にかねてからの密約があった可能性もあるという。光秀は同6年、再び黒井城を攻め、直正を病で失っていた赤井方は敗れ、黒井城は落城した。
対談では、直正の出自に始まり、その生涯に迫った。
赤井家で生まれた直正は、幼少期に同市春日町の荻野家に養子に入った。山内さんは、直正の名字が「赤井」か「荻野」のどちらが正しいのかについて、「直正自身が書いた書状には『荻悪』と署名しており、荻野と名乗っていたのだろう。史実としては『荻野』が正しい」と見解を示した。
氷上郡(現丹波市)の足立氏、芦田氏の連合軍との戦い「香良合戦」を制し武勇を挙げた直正に、甲斐国の武田勝頼から書状が届いたことに触れ、村上さんは「書状から両者は対等の関係だったことがうかがえる。直正に対する評価の高さが分かる」と話した。
直正について書いた地元史料に「シノビ」の文字が見られ、複数人の名が記載されていることを紹介。2人は、この「シノビ」が「忍者」を示しているかは不明としつつも、村上さんは「当時は情報収集が大事。忍び(忍者)をたくさん抱えていたともうかがえる記述だ」と話した。