青春に「楽しさ」なし 勤務工場の煙突に軍機激突 「かわいそうでならなかった」 戦後77年―語り継ぐ戦争の記憶⑤

2022.08.30
地域歴史

戦争中の思いを語る永井さん=兵庫県丹波市市島町上垣で

今年で終戦から77年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は永井多津江さん(95)=兵庫県丹波市市島町上垣=。

太平洋戦争の末期が近づいた1944年(昭和19)12月、勤労報国隊の一人として、同県伊丹市にあった軍需工場「栄養研究所」で、戦地の兵士が携帯する燃料や食料の生産に当たった。日の丸が描かれ、勇ましく「神風」と書かれた鉢巻きを締め、約3カ月間の作業に従事。その間に起きた空襲により、尼崎方面の空が真っ赤に染まったことや、米軍機を迎え撃つべく飛び立った日本軍機が、同研究所の煙突に激突し、パイロットが絶命したことなど、今なお忘れることができない出来事に遭遇した。

27年(昭和2)、吉見村(現・丹波市)の生まれ。吉見尋常小学校の時、日中戦争が勃発。太平洋戦争中にかけ、村の若者が出兵する際には、近くの鴨神社で祈願し、同市にある市島駅まで軍歌を歌いながら送った。「勝ってくるぞと勇ましく」で始まる「露営の歌」は、今でも歌える。

太平洋戦争が起き、生活や世の中の雰囲気ががらりと変わったと感じている。学校では唱歌だったのが、「軍歌で育った」と思うほど戦争一色になった。拍子木を鳴らして村を歩く「火の用心」の文句は、「米英撃滅 火の用心 撃ちして止まん 火の用心 いらぬ電気は消しましょう」に変わった。「アメリカのような大国と戦争して勝てるんやろか」と思っていたが、戦争に反対しようものなら「国賊」とさげすまれる雰囲気を感じ取っていたという。

同研究所には、市島の5村からそれぞれ指名された、30人近くの女性が勤務した。吉見村からは6人が選ばれ、「国のために働くという意欲があったので、つらい、苦しいといった思いはなかった」と振り返る。

とは言え、無事に村に帰れるかは分からず、不安な日々を過ごした。そんな折、吉見村役場の職員が工場を訪問し、家族からの手紙を届けてくれたことがあったという。永井さんは、祖母の寿美さんの手紙と、手縫いの足袋を受け取った。手紙には、何一つことづけるものがなく許してほしいと詫びた文面の後、「せめて足袋なりと思い、急いで縫った足袋をはいてください」「どうか風邪をひかないよう、お勤めください」などとつづられていた。体調を気遣う祖母の優しさに触れ、「本当にうれしかった」と話す。今もこの手紙は大切に保管している。

ある夜、寮の2階で休んでいると、爆弾が爆発したような轟音が鳴り響いた。米軍機の迎撃に向かった日本軍機が、研究所の煙突に衝突し、折れていたという。「灯火管制下にあり、暗い中を飛んだことが原因だったのかもしれない。本当にかわいそうでならなかった」と語る。

45年3月に自宅に帰ることができ、市島駅近くにあった郵便局に勤めた。8月15日、近隣の女性が窓口を訪れ、「重大放送があるらしい」と伝えられた。女性宅に赴き、2人で「玉音放送」を聞いた。音声は明瞭だったが、「『負けた』ということは言われなかったので、ピンとこなかったが、原爆を落とされ大丈夫なんやろかと不安に思っていたころ。後で敗戦を知り、泣きに泣いた」と話す。

「私の青春に、楽しいことは何一つない」と言い、「若い時は苦労したけれど、今は家族に良くしてもらい、感謝、感謝の毎日。平和に感謝して暮らさないといけない」。

関連記事