城山山頂まで肥持ち アンゴラウサギ飼育  戦後78年―語り継ぐ戦争の記憶⑫

2023.09.27
地域歴史

生郷国民学校時代に使っていた竹刀を手に、戦争中の記憶をたどる小森寛一さん=兵庫県丹波市氷上町市辺で

今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は小森寛一さん(91)=兵庫県丹波市氷上町市辺=。

「全部が全部覚えてないが、あの頃の生活は忘れられない。男は兵隊に取られ、徴用に取られ、銃後の暮らしは、どの家も大変やった。僕ら(の年代)は、まだ運の良い方かもしれん」と語る。生郷国民学校高等科2年、13歳の夏に終戦を迎えた。戦局の悪化で1944年(昭和19)ごろから、勉強どころではなくなった。「働け、働け。怠けたら戦争に負けるぞ」と言われ、労務作業に追われる毎日だった。

運動場の3分の1を開墾した。学校の裏山、城山の山頂も切り開き、サツマイモを植えた。肥を持って急な山を登ったのを覚えている。「兵隊さんの毛皮になる」と、学校でアンゴラウサギを飼っていた。自宅でも飼うように言われ、飼っていた。

同じ頃、グライダー練習場があった赤井野(丹波市氷上町新郷)に、マツの木を切りに行った。燃料用のまきを大量にこしらえた。石生駅から貨車で、阪神間に運ばれた。水分れ公園(同町石生)の奥に炭焼き小屋があった。向山、清水山で切った木を運び出す役をさせられた。

高等科2年になると、石生地頭にあった東洋電機の工場(現在は、水分れ公園駐車場)へ動員された。何かの製品を入れる木箱を作る大工の下働きをした。「学校の講堂も床をめくり、軍需工場になっていた。稼働するかせんかのうちに終戦になったように思う」

氷上郡公会堂であった、予科練の予備試験に行った記憶がある。棒があり、その下をくぐると、「身長が足りない」と不合格だった。

低学年の頃まで、よろず屋を営んでいた自宅は戦前に整備された県道、通称「衣川街道」沿いにあり、石生駅を利用する成松、葛野、幸世、青垣の人が行き交った。たまに通るバスはいつも超満員。後部にボイラーを積んだ木炭車だった。出征する人、白木の箱で故郷に戻る人が、家のそばを通り過ぎた。通知があったときには沿道で見送った。年齢の近い子どもが車力を押して、荷物を石生駅に運ぶ姿もよく見かけた。

商売上の付き合いで買ったラジオが家にあった。「ラジオがある家は見分けがついた。長い竹をアンテナに立てとった。『中部軍情報』とラジオが空襲警報を知らせていた」

終戦になった途端、勉強が始まった。ある日、教室から大きなたき火が見えた。運動場で、剣道の道具類が焼かれていた。進駐軍の指示だった。「寒稽古や言うて、こないだまで厳しくしごかれていたのに、戦争に負けると惨めなもんやと思った」

米軍を身近に感じたのは、米軍の艦載機グラマンが1機、高い所を飛ぶのを見た1度きりだった。戦後、進駐軍の仕事で、戦闘機などを造っていた川西航空機(宝塚市。現在の阪神競馬場)に残っていた機械の整備に通った。巨大な爆弾が落ちた跡がすり鉢状になり、水がたまっているのを見て、都市部の被害の大きさを実感した。

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