97歳の兄は激戦地で逝く 戦争回避に「国が欲出さないこと」 戦後78年―語り継ぐ戦争の記憶⑭

2023.10.13
地域歴史

「幸せなのも平和のおかげ」と語る中西さん=兵庫県丹波篠山市風深で

今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は中西茂さん(97)=兵庫県丹波篠山市風深(ふうか)=。

昭和20年(1945)、大阪市を焼き、1万人以上が犠牲になった大阪大空襲。当時、陸軍に所属しており、大阪府和泉市の信太山から見上げた大阪の空は赤かった。「しばらくしてから市内に行ったが、とにかく一面、焼け野原。建物がほとんどなくなり、1つだけポツンと倉庫が残っていた。まだ燃えているものがあり、『焼けないように気を付けろ』と言われた。あの光景を見ると、『ああ、日本は負けるかもしれない』と思いました」

この時、20歳。空襲後、信太山の部隊から茨城県の部隊に移り、そこで終戦を迎えた。「友だちも『そろそろ』と言っていたし、大阪大空襲も見た自分としては、『やっぱりか』という印象だった」と話す。

運動神経抜群で、兵役検査は甲種合格。部隊では懸垂を披露し、20回した時点で「もういいから」と言われるほどの体力自慢だった。あと少し戦争が長引けば最前線に投入されていたかもしれない。

母を早くに亡くし、3つ上の兄、弘さんはひと足先に戦地に赴いており、「いつ自分も外地に行くかもしれない状況。家のことを思うと心配で、できれば行きたくなかった」と振り返る。

終戦後、郷里に戻り、兄の訃報に触れた。ビルマ(ミャンマー)の激戦地で砲弾に倒れていた。

23歳で戦死した兄の弘さん

戦場に行く前、父と共に姫路の部隊にいた兄を訪ねたことがある。明るく、元気で、柔道が強かった兄から形見として腕時計をもらった。封書だけだった死の報せにも「仕方がない」と思ってしまう世の中。紅顔可憐な兄は23歳で逝った。

その後、鉄道コンクリート工業株式会社(現・テツコン)などに勤め、高度経済成長を遂げていく日本の屋台骨を支え続けた。

大好きな運動ではゲートボールなどで腕を鳴らし、若い頃は仲間と共に中国に赴き、現地の選手と相まみえたこともある。かつての敵国の人たちと共に汗を流し、「向こうの人は上手でした」とほほ笑み、「それもこれも平和やからですね」とかみしめる。

100歳に手が届く年になった。健康の秘訣は「食べて、寝る」こと。野球や相撲のテレビ観戦が日課で、大の阪神タイガースファン。18年ぶりの優勝には、「うれしかった。日本シリーズに行けるかが楽しみ」と目を輝かせる。

子ども4人、孫11人、ひ孫16人に恵まれ、穏やかな日々を送る。「幸せですよ。兄の分まで幸せになれたんかな」

ウクライナとロシアの情勢など、再び、「戦争」の二文字がひたひたと歩み寄る音が聞こえる。「戦争はやったら駄目。そして、食い止めるためには、国が欲を出さないことが大事やと思います」

大正から令和まで、激動の時代を見てきたからこその重みがあるー。

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