2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀。主君、織田信長の命を受け、畿内の「丹波攻め」を行った光秀が、自身の母をなくしたという説があり、「本能寺の変」の引き金の一つかと疑われるほどの苦杯をなめたのが、多紀郡(現・兵庫県篠山市)の八上城主・波多野秀治との戦だ。結果的に敗れたものの、今でも地元から信望が厚い敗戦の将。彼はいったいどのような生涯を送ったのか。
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面従腹背、反織田の一角に
波多野秀治の先祖は、応仁の乱での活躍により、細川氏から丹波国多紀郡に所領を与えられた。秀治はそれから5代目にあたる。波多野氏は一時、八上城を追われていたが、永禄9年(1566)、秀治が父とともに城を取り返した。その後、秀治は多紀郡一帯に勢力を及ぼしていたとみられる。
天正3年(1575)、信長に命じられた光秀が丹波攻めを開始。秀治は当初、明智軍に加わり、この年の11月には隣の氷上郡・黒井城攻めに参戦した。しかし、年が明けた天正4年(1576)1月、秀治は突如、黒井城の赤井(荻野)直正方に寝返り、明智軍を背後から攻撃する。
面従腹背。水面下では丹波国内部で連携をとっていたのだろう。秀治の裏切りにより、明智軍は、大打撃を受けて敗走した。以後、秀治は反織田勢力の一角となる。
翌年の10月、光秀が丹波攻めを再開。多紀郡内の城が次々と攻め落とされ、天正6年(1578)には、秀治の本拠・八上城攻めが本格化した。対する秀治は、籠城戦を決意。信長に対抗する中国地方の毛利氏を頼みとした決断だったとみられる。このころ、近隣の播磨、摂津でも反織田の戦いが起きていたからだ。
地の利を生かし、光秀らの猛攻を約1年半にわたって耐え抜いたものの、秀治は少しずつ追い詰められていく。城の周りを堀や塀、柵で厳重に囲まれ、食糧を運び込むルートを断たれた八上城。長期の籠城で、何百人もの餓死者が出たといわれている。
天正7年(1579)6月、ついに秀治らは光秀に降伏。その後、信長の本拠地、安土に送られ、城下で処刑された。
秀治の次男は落ち延び、徳川家康が慶長14年(1609)に豊臣方の抑えとして築かせた篠山城に始まる篠山藩に仕えたと伝わる。事実、今も篠山市には波多野姓が多く残っている。
光秀の母をはりつけたとの説も
「丹波冨士」とも呼ばれる高城山(標高462メートル)に築かれた八上城。八上城跡には、落城悲話にまつわる“伝説”がいくつも伝わっている。
登山道にある「はりつけ松」は、光秀の母がはりつけにされたとされる場所だ。
丹波攻めの際、八上城がなかなか落城しないため、信長にせきたてられた光秀が自分の母親を人質に差し出した。その後、降伏した秀治らを信長が処刑。主の処刑を聞き、怒った八上城の兵たちが母親をこの松にはりつけにしたという伝説が残る。信長の勝手な所業と母の死が、「本能寺の変」の引き金の一つになったともいわれている。今は松の木はなく、看板が立っているのみ。
朝路姫の悲劇
また、「朝路池跡」は、八上城内の水場だった場所で、今も水をたたえている。ここには、波多野秀治の娘・朝路姫が、落城の時に身を投げたという伝説がある。女の人が池をのぞき込み、美人に見えれば、近いうちに死を迎えるという怪談めいた話も伝わる。
後世の創作とも言われるが、いずれにしてもさまざまな伝説が生まれた八上城。光秀にとっても、秀治にとっても悲劇の舞台を、大河ではどのように描かれるのだろうか。