地元も肯定的?光秀の「平定」 背景に地元武将の研究遅れか 丹波攻略の地で研究者が再考促す

2019.10.31
ニュース丹波市明智光秀と丹波地域歴史

光秀の丹波支配について講演する福島さん

来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で注目が集まる戦国武将・明智光秀について、京都府乙訓郡の大山崎町歴史資料館館長で、光秀についての著書も出している福島克彦さんがこのほど、「丹波攻め」で攻略された兵庫県丹波市で、光秀と丹波について講演した。福島さんは、兵庫・丹波地域の人々が攻められた側にもかかわらず、「丹波平定」を肯定的にとらえていることを指摘し、「地元の武将がどのような思いで戦ったかの研究が進んでいない」と投げかけた。要旨は次のとおり。

 

信長が命じた「丹波平定」とは

丹波攻略は天正3年、織田信長が光秀に、丹波国船井郡(京都府)の内藤氏と桑田郡(同)の宇津氏の2つの抵抗勢力を「討伐せよ」と命じたことから始まった。

これがひと段落すると、丹波国氷上郡(兵庫県丹波市)の黒井城の荻野直正が攻撃対象になった。光秀は天正3年11月から黒井城を攻めて落城寸前まで追い込んだが、翌年の正月15日、同国多紀郡八上城(同県丹波篠山市)の波多野秀治が裏切り、光秀は敗走した。

ただ、直正はこのすぐあと、信長と光秀に詫びを入れ、2人も承認している。直正は現実路線。信長、光秀勢力の怖さを知り、亡くなるまで表面上は戦わない立場に転換した。

一方、秀治は徹底的にマークされ、天正5―7年の第2次丹波攻めは、八上城攻めが中心になった。光秀は時間をかけて秀治を多紀郡で孤立させ、天正6年12月に始まった兵糧攻めで追い詰めた。

第2次丹波攻めのころ、伊丹城の荒木村重、三木城の別所長治ら、反信長の動きが連動して起きていた。丹波では直正が亡くなり、荻野氏は波多野氏と組んで信長に抵抗した。しかし光秀は、郡境の金山に城をつくって両氏を分断するなどし、屈服させていく。天正7年に黒井城が落城し、丹波攻略がほぼ終わった。

 

新たな史料に見える光秀の手腕

多紀郡での戦いに比べ、史料がなかった氷上郡での戦いについて、最近いろいろと分かってきた。

「本城惣右衛門覚書」は、氷上郡の本城(本庄)惣右衛門という領主が、どんな戦争に参加して誰と戦ったかを記した史料。「本能寺の変に参加した」と当時の様子を書いているため注目されている。覚書によれば、当初は荻野方として戦っていた由良、香良の2つの村が謀反を起こして「あけち方」になり、山の中の城にこもって住み始めたとある。長田という村も荻野氏から離反したとあり、光秀が村々に入り込んで地元の人たちを上手になびかせ、荻野氏に抵抗運動を起こさせていたことが分かる。

「富永文書」は天正7年、光秀が、山城に立てこもって避難していた百姓たちに村に戻るよう命じたもの。住民の避難が結構長く続いていたことが分かる。光秀の丹波攻略の戦後処理の第一歩は、避難していた人たちを戻すことだった。この後、いろいろな復興事業をしており、町場の復興のために、多紀郡の宮田市場を保護したことを示す史料などもある。

光秀は天正9年6月に「家中軍法」を定めた。石高に応じて軍役賦課を決めており、少なくともこれ以前に丹波でも検地をしていたと考えられる。「摩気神社蔵小畠文書」は、天正10年7月、光秀が滅びた直後に、船井郡の小畠氏が秀吉に提出したもの。村々の石高が書かれており、光秀時代の小畠氏の領地を表したものだろう。光秀が、近世へと続く石高に応じた領地運営をしていたことが分かる。

 

攻められた側の思いもちゃんと描いて

来年放送のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」に関して、最近よく感じることがある。光秀の「丹波攻略」に対して、地元の自治体や住民の方々が「丹波平定」と割に肯定的に捉えていることだ。これは地元の武将の誰が、どんな思いで光秀と戦ったのかということがまだ研究されていない、知られていないということが背景にあると思う。

1996年の大河ドラマ「秀吉」では、明智光秀の母親役の野際陽子さんが、八上城の兵にはりつけにされて殺されるシーンがあった。「総見記」の逸話ではあるが、史実ではない俗説だ。この大河ドラマでは八上城主の波多野秀治は描かれておらず、失礼な言い方だが、丹波の田舎の武士が無慈悲に光秀の母を殺した、という筋立てだった。

波多野氏の研究なども進んできている。今度の大河ドラマで、攻められた丹波の側の論理や思い、苦悩をちゃんと描いてもらうためにも、光秀の丹波攻略をもう一度捉え直す必要があるのではないか。

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