【光秀×丹波】激戦の波多野秀治 遺児がつないだ”血”脈々と 一族やゆかりの人々で同族会

2020.01.05
ニュース丹波篠山市地域明智光秀と丹波地域歴史特集

大正になって建立された波多野秀治の供養塔と同族会の吉和さん=兵庫県丹波篠山市味間奥で

1月から戦国武将・明智光秀を主人公に、群雄割拠の乱世を描いたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映がはじまる。織田信長の命により、2度にわたって兵庫・京都にまたがる旧丹波国に対して、「丹波攻め」を行った光秀。光秀にすれば「平定した」、丹波地域にとっては「征服された」という表裏一体の意味を持つ。多くの寺社なども焼かれ、民衆は混乱に陥ったことは想像に難くない。「爪痕」は今も点在し、戦国の記憶を現代に伝えている。

光秀によって攻め滅ぼされた兵庫県丹波篠山市の八上城。そして、安土に送られて処刑された城主の波多野秀治。しかし、秀治の遺児は落城時に城外へ逃れ、血筋を保ったと伝わる。それが、今も丹波篠山市内に残る波多野姓につながっているとされる。

「秀治の子とされたのは、波多野甚蔵。私の家は分家か、関係者になるんかな」

そう語るのは、波多野吉和さん(72)=同市味間奥。波多野一族やゆかりの人々でつくる「同族会」のメンバーだ。

伝承によると、甚蔵は落城の際、乳母や腰元とともに、高城山を駆け下りた。下山したものの、腰元は敵方に捕まり、殺された。その塚が今も「乙女塚」(同市野中)として伝わっている。

その後、甚蔵は乳母の里である同市黒田地区に逃げ、後に文保寺(同市味間南)に徒弟として入門。快祐と改名し、仏事に努めたが、30歳で還俗し、名を波多野源左衛門定吉と称したという。

徳川家康の普請で篠山城が築城され、藩主となっていた松平忠国は、定吉を八上城主の子であることを惜しんで禄を与え、代官に任じたとされる。

波多野さんによると、同族会は一族の親睦を図りながら、波多野氏の歴史資料などを調査研究することを目的に設立。定吉に始まる本家が途絶えた現在では活発な活動はなくなったが、かつては波多野氏ゆかりの地を訪ねたり、毎年、八上城があった高城山に登り、会合を持っていたそう。

「特に波多野氏について教えられて育ったことはないけれど、秀治は攻められた側で、最初の丹波攻めの際には光秀を裏切っていることや、光秀の母をはりつけにしたという伝承から、『悪者』という扱いをされている気もする」と複雑そうな波多野さん。それでも、「大河をきっかけに秀治や丹波篠山市に関心を持ってくれる人が増えたらうれしい」と期待している。

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