今でこそ新聞記者などとうそぶいている私だが、幼いころは「文章力」なんて、てんでなかった。その証拠が、なぜか母が大切に保管している当時の日記だ。ここにその一部を紹介しよう。 「きょう、ゆうちゃんが『おっ』といったので、ぼくは『うっ』といいました」 何が言いたいのか、まったくわからない。ゆうちゃんはなぜ「おっ」と言ったのか、そして、私はなぜ「うっ」と言ったのか。気になってしまうではないか。 続いての作品はさらにその上を行く。 「きょうはおもしろいことがなかったので、きょうをなしにしました」 このコペルニクス的転回。ある意味すごいが、心配になる。これに対し、先生は力のこもった筆跡で、「もっと考えましょう」。正論だ。私が先生なら三者面談に持ち込む。 何が言いたいのかといえば、可能性とは計り知れないものだということ。葉脈のごとく枝分かれした人生の岐路の中、誰がどんな道を進むかなんて、ふたを開けてみないとわからないものだ。 うーん、美化しすぎか。駄文、失礼しました。(森田靖久)