生まれは岐阜?滋賀説も 光秀の出自めぐり講演 「前半生の一次史料ない」

2020.09.04
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光秀の出自について語る渡邊さん=2020年8月29日午後2時39分、兵庫県丹波市柏原町柏原で

兵庫県丹波地域の歴史や文化などを掘り下げる「丹波学」講座がこのほど、同県丹波市内で開講した。25年目となる今年度は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に合わせ、特別編として、丹波地域ゆかりの戦国武将、明智光秀にスポットを当て、5回の講座を企画。初回は渡邊大門さん(歴史と文化研究所代表取締役)が、「明智光秀の出自をめぐって」と題し講演した。要旨は次のとおり。

明智光秀の前半生については不明な点が多い。父の名前すら系図によってばらばらで、「土岐系図」では「光國」、「明智氏一族宮城家相伝系図書」では「光綱」、「鈴木叢書」の明智系図では「光隆」となっている。

生年月日も定かではない。2つの系図に「享禄元年(1528)」とあり、「明智軍記」も享禄元年説を取っているが、「当代記」によると「永正13年(1516)」の生まれ。細川家の家史には「大永6年(1526)」説もある。いつ生まれたかといえば、「1516年から1528年の間ぐらい」としか言えない。

出自については、美濃の名門土岐明智氏の流れをくむという説が一番有力視されているが、確かな史料はない。「兼見卿記」には、美濃に親類がいたと書かれており、光秀の妻は美濃の出身だったことから、光秀は美濃の出身である可能性は非常に高いが、土岐明智かははっきりしていない。

「永禄六年諸役人附」に、足利義輝の足軽衆として「明智」が出てくるが、身分の低い足軽だったのなら、土岐明智の系譜と矛盾する。土岐明智の家系は1400年代の後半から途絶えており、光秀が勝手に継いだことも考えられる。

近年は、全く違う滋賀出身説もクローズアップされている。「淡海温故録」には、光秀の祖先が美濃から近江国犬神郡に来て、2、3代後に光秀が生まれたと書かれており、話題になった。

「米田家文書」の「針薬方」にも「明智十兵衛が高嶋田中に籠城中に語った」とあることから、光秀が滋賀県高島市にある田中城の城主だった可能性が指摘された。

後に信長から大津の坂本城を与えられていることから、もともと滋賀生まれで、滋賀を支配していたと考える方が無難だという見解だ。犬神郡多賀町佐目には十兵衛屋敷跡と伝わる場所もある。しかし、この説も一次史料はない。

また針薬方の文書から、「光秀は医者だった」という説もさかんに言われだしたが、医術の心得があったとしても民間レベルで、「医者」というのは言い過ぎだろう。

光秀の前半生についての一次史料はなく、後世になっての二次史料しかない。今のところ信用できるのは、信長と共に上洛する永禄11年(1568)以降だけだ。大河ドラマは、「創作」として楽しんで見ていただけたらいいのでは。

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