光秀の限界

2018.06.14
丹波春秋未―コラム

「我が主、光秀は心根の優しい男でござる。美しくはあったが幼児の病で痘痕が残る奥方を、律義な光秀は幼児の婚約を違えず、妻に迎えられて終生慈しみになられ、奥方以外の女子を近づけなかった」。

「それならなぜ、このように大それた…」。「これまでの信長公のご無体、非道の数々を、大軍の力をもってお諫めし、お聞き入れなくば捕えて、丹波に蟄居を願うつもりでござった。あの時の本能寺の異常な雰囲気のなせる行き違い、この結果は決して光秀本人の望むところではござらぬ」。

―光秀の女婿、左馬助が信長の菩提寺、阿弥陀寺の清玉上人に弁明する場面を、加藤廣「明智左馬助の恋」が描く。後段は確かめようがないが、前段はおおよそ頷ける。

皇室や公家への不遜な態度、一向宗徒や武田など敵への残忍な仕打ち、家臣の傍若無人な使い方など、主人の流儀への反発が募っていたところに、信長を毛嫌いする公家方からつけ入れられたというのが、本能寺の変への大方の見方だが、“三日天下”はやはりそれが光秀の限界だったことには違いない。

そして家康が最後の勝者になったのは、信長にも秀吉にもあった限界のいずれをも凌いで、落ち着くところに落ち着いた結果と言えるだろう。さて、再来年の大河ドラマの主人公光秀は、どう描かれるか。(E)

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