老人はなぜ尊敬されるのか。福沢諭吉は『福翁百話』の中で言い切っている。「次第に死んで世の中に数が多くないために尊敬し愛惜の情を表しているだけにすぎない。智徳のいかんを問題にしているのではない」。この通りならば、老人の数が多くなると敬老の念は薄れることになる。
諭吉の生きた時代と違い、超高齢化社会の現代。作家の五木寛之氏は、「右を向いても左を向いても年寄りばかりという時代」であり、「老人階級」というべきものが出現したという(『孤独のすすめ』)。そんな現代には、「嫌老」の空気が漂い始めたとする。
高齢者の年金や医療・介護費が国の財政を圧迫している。財源を支える勤労世代には、その恩恵を受けられる保証がない。「なぜ高齢者ばかりがいい目をみるのか」。そんな思いが若い世代などの間で芽吹き、不満につながり、高齢者に対する嫌老感を生み出しているとする。不気味な指摘だ。
生き続ける限り、誰しも老いを避けることはできない。嫌老感を抱く若者もやがて老いる。老いは避けられないものと諦めるしかないが、「諦める」は「明らめる」から転じたものであり、諦めるとは明らかに究めること。
「嫌老社会」においての敬老の日は、いかに老いの日々を過ごすか、どう老いを迎えるかを明らめる機会かもしれない。(Y)