5円玉の精神

2019.03.17
丹波春秋未―コラム

 東京の銭湯が19円に値上がりし、番台で1円のお釣りをもらうようになった時代に詩人の石垣りんは「銭湯で」という詩を作った。洗面道具と共に1円玉が湯船に持ち込まれ、健康的な女と一緒に湯につかっている。その様子を「お湯の中で今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ」と描写し、「お金に値打ちのないことのしあわせ」とした。

 1円玉1枚に人は振り回されることはなく、それは「しあわせ」なこととした。最近、宍粟市の農家が書いた文章を読み、この詩を思い出した。その農家は「五円玉の国になろう」と書いていた。

 1949年に今のデザインで発行された5円玉には稲穂と水、歯車が描かれている。戦後の荒廃の中で農業、水産業、工業が共に栄えることを願った。

 今、5円玉1枚で買えるものはあるのかと思う。しかし、5円玉自体の値打ちは低くなったとしても、5円玉に託された精神は薄れてはおらず、今こそ見直す必要がある。

 農家の高齢化が進み、農業人口の減少が進む。国の根幹でありながら、土台が揺れている日本の農業。その現状と将来を憂う脚本家の倉本聰氏の言葉「コンピューターで食料は作れない」は卓見だ。農業を重んじた5円玉の精神を取り戻せるかどうか。そこには私達の「しあわせ」がかかっている。(Y)

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