光秀と「赤鬼」の攻防史 荻野直正「黒井城の戦い」 武勇優れるも現実路線歩む

2020.07.11
ニュース明智光秀と丹波地域歴史特集

今なお石垣が残る黒井城跡=兵庫県丹波市で

兵庫県丹波市でこのほど、市民観光おもてなし講座「明智光秀の丹波攻略と黒井城」が開かれた。市外からの約90人を含む約280人が、城郭談話会の福島克彦さんの講演に耳を傾けた。福島さんは、丹波国の黒井城主・荻野(赤井)直正と、光秀の黒井城攻防戦前の過程を中心に話し、第1次の黒井城攻防戦の3カ月後には光秀と和睦するなど、直正が、勇猛なだけではなく、現実を見ながらしたたかに生きた武将だった一面を紹介するなどした。要旨は次のとおり。

 

直正の歩みなどを詳しく語った福島さん=2020年7月5日午後2時38分、兵庫県丹波市春日町黒井で

直正が力をつける道は平たんではなかった。守護大名の細川氏の代わりに治めていた守護代の内藤宗勝に黒井城がいったん占領され、直正と父の赤井時家は黒井城から追い出されている。荻野、赤井の一族は一枚岩でなく、内藤の味方をする者もあった。時家、直正は、内藤と戦って丹波を取り戻した(1565年)。

暗殺された足利義輝の後、信長に押されて将軍になった足利義昭が近畿を再びまとめようとした(68年に上洛)。丹波の国衆も信長と義昭を盛り立てようとしていた。赤井家は、氷上、天田(現在の京都府福知山市)、何鹿(現在の京都府綾部市)の3郡の統治が信長に認められており(70年)、荻野、赤井と信長は、この頃は仲が良かった。

但馬国の守護、山名氏が美濃の信長にあいさつに出向く際、丹波を通るのに、信長が荻野に安全を保つ協力を求めたことが分かっている。平和なときは秩序が守られていて、いざこざばかりしていたわけではない。ただ、仲良くしながらも、反信長勢力と手を結んでいたことを示す文書(69年と推定)がある。荻野、赤井は信長とはつかず離れず動いていた。

義昭はやがて信長と対立、武田信玄や朝倉義景らと結び、反信長になる。直正も、京都に出陣すると言った。反信長勢力の石山本願寺の顕如が朝倉に宛てた文書(73年)によると、直正が京都に進撃すると言っているが、丹波勢の働きは大したことがない。丹波の侍は、奥郡(氷上、天田、何鹿)と口郡(多紀、船井、桑田)で仲が悪いので、あてにできず「信用に足りず」と書かれていた。直正も信用されていなかった。

直正は、義昭を助けないといけないと言いながら、山名氏と但馬で戦っていた。信長は朝倉家など義昭派を滅ぼし、義昭を追放した。そうこうするうちに直正に但馬に攻め入られた山名氏が、信長に助けを求めてきた。これが、天正3年(75年)の明智の丹波攻めにつながる。

信長は重臣の光秀を派遣、光秀に攻められ領地が危うくなった直正は山名勢の竹田城を攻めるのをやめ、黒井城に戻り、籠城戦を戦った。天正3年11月の文書に、「丹波の国衆過半が、残るところなく光秀についている。(天正4年の)正月には落ちるだろうと思われる」とあり、直正はここで死を覚悟したと思われる。ところが、1月15日に八上城主の波多野秀治の突然の裏切りにあい、直正は九死に一生を得た。直正は波多野と手を組み、光秀を追い出した。

直正は、光秀を追い出した3カ月後には、信長に謝っている。多分だが、直正は、そこからはできるだけ光秀や信長とぶつからないようにしていこう、その方が現実的だと実感したのだと思う。兵力、軍隊、物量、鉄砲もたくさんあり、これは手ごわいと思ったはず。天正4年4月13日と思われる信長の朱印状には、赤井と直正が謝ってきたので、それを許したと信長が語っている。直正を攻めていた国衆には、土地を認めるから安心しろと言い、これからも光秀と相談し、私たちに尽くせと言っている。

直正は信長、光秀の強さを知り、現実路線を歩んだ。直正は武勇が優れていただけでなく、ある程度現実を見ることができた武将だった。信長は波多野の孤立化をはかった。波多野が(信長に謝った)直正をどう思ったかは、資料がない。

直正は天正6年3月に病気で死ぬが、生きている間は信長、光秀とは正面衝突はせず、むしろ直正が止めていたと考える。

「呼び込み戦術」と言われるが、後知恵だろう。荻野と波多野は連携していないと思う。なぜ信長、光秀に忠実だった波多野が突然裏切ったのかは分かっていない。近畿地方の武将には、信長を裏切る動きがあった。信長は、義昭を追い出した後は、将軍でも関白でもなく、個人的に戦っている武将だった。近畿地方の人は、納得していなかったんじゃないか。

直正の死後、赤井、荻野、波多野が明智の領地を奪った。直正が死ぬといきなりこういう動きになり、2度目の丹波攻めが起こった。

明智の丹波攻めは「荻野と波多野が抵抗して」と受け止められていたが、氷上郡(現丹波市)の中で反乱が起こり、荻野方から光秀方につく集落がでてきていたことが最近分かった。黒井城を落とした光秀は、城にこもっている人たちに早く家へ帰れと言い、荻野に対抗して山にこもって暮らしていた人たちに、里に下りて田を耕せ、寺のことをやれと言った。

黒井城に残る石垣は、光秀らが改修したものだろう。直正のころの土づくりの城の遺構は、西の丸、千丈寺、龍ケ鼻などで見られる。明智時代の石垣と土づくりが混在している。

【黒井城の戦い】天正年間、織田信長の命を受けた光秀が、丹波国平定戦「丹波攻め」を繰り広げた。同3年、丹波国に覇を唱えていた直正との戦いでは、直正が光秀軍を挟み撃ちにする戦法「赤井の呼び込み戦法」を展開し、光秀は敗走。この作戦は、同県丹波篠山市の八上城主・波多野秀治が赤井方に寝返ったことに起因するともいわれ、直正と秀治との間にかねてからの密約があった可能性もあるという。光秀は同6年、再び黒井城を攻め、直正を病で失っていた赤井方は敗れ、黒井城は落城した。

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